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戦後80年談話(石破総理)について


 

「国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的・積極的に考えて、将来にいかしていくことで平和国家としての礎が一層強化される。」

 

 


石破内閣総理大臣記者会見

更新日:令和7年10月10日
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【石破総理冒頭発言】

 本日、「戦後80年に寄せて」と題します内閣総理大臣所感を発出をいたしました。
 本文につきましては、もうメディアの方々にはお配りをしておるところでございます。時間の関係もございますので、少し短いものをこれから申し上げますことをどうぞ御了承賜りたいと存じます。
 本年は戦後80年であります。私自身、国内外の戦没者の皆様方の慰霊碑にお参りいたしますとともに、8月6日の広島市原爆死没者慰霊式、8月9日の長崎における原爆犠牲者慰霊平和祈念式典、そして、8月15日の全国戦没者追悼式に出席する中で、なぜ日本はあの戦争を止めることができなかったのか、政治はいかなる役割を果たし、いかなる役割を果たさなかったのか、そのような、かねてから持っておりました問題意識でありますが、これを改めて強く持ったところでございます。
 これまでも、戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出をされており、歴史認識に関する歴代内閣の立場につきましては、私もこれを引き継いでおります。他方、過去3度の談話におきましては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点につきましてはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、そこには、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえませんでした」と、このような一節がございますが、それ以上の詳細については触れられておりません。論じられてもおりません。
 当時の日本の国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。今回発出いたしました「所感」は、これまでの談話における残された課題に対する私なりの考えであり、また、国民の皆様方と一緒に考えるためのものでもございます。
 いかなる経緯で、日本はあの戦争に突入していったのか。当時の大日本帝国憲法、政府、議会、メディア、それぞれに問題があったものと考えております。
 大日本帝国憲法について申し上げます。この憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権、これは独立したものとされて、「文民統制」の原則は、制度上存在をしておりませんでした。内閣総理大臣は、内閣の首班とされつつも、内閣を統率するための権限は与えられておりませんでした。そうでありますがゆえに、政治と軍事を統合して、国家としての意思を一元するためには、これは政治学者の丸山眞男さんの言葉でありますが、丸山眞男さんの言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的な存在の媒介」を必要とする仕組みでした。これらが帝国憲法が抱える制度上の問題でありました。
 1910年代から1920年代にかけて、大正デモクラシーと言われた時代ですが、その時代に入りますと、先ほど申し述べました政治と軍事とを統合する「媒介」、この役割はそれまでの元老から政党へと移っていくのであります。政党内閣も、当初は、幣原外交という言葉がありましたね、幣原外交に表れたように、帝国主義的な膨張には抑制的でありました。しかしながら、次第に統帥権の意味が拡大解釈されて、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府及び議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきます。
 政党間の政権争いが激化する中で、政党は次第に国民の信頼を失っていきます。1930年代になりますと、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるために、海軍の一部と手を組んで、ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、統帥権は軍政にも及ぶ、すなわち、オペレーション、軍の運用だけではなくて、その予算、体制の整備にも及ぶのだと、このような主張をして、時の政府を激しく攻撃をいたしました。
 1935年になると、美濃部達吉氏の天皇機関説、これについて立憲政友会がこれを政府攻撃の材料として非難をして、軍部をも巻き込む政治問題に発展します。時の岡田啓介内閣はこのように言っております。「学説上の問題は学者に委ねるべき」と、このように言って、政治的に距離を置こうといたしました。しかしながら、最終的には軍部の圧力に、軍部の要求に屈して、天皇機関説を否定をする国体明徴声明と、こういうものを2回にわたって発出をして、美濃部氏の著作は発行禁止となるのであります。このようにして、政府は軍部に対する統制を失っていきます。
 議会についてはどうだったのでしょうか。本来は軍に対する統制を果たすべき、これが議会なのですが、これもその機能を失っていきます。最たる例は、1940年の斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でありました。斎藤議員は、戦争の泥沼化を批判をして、戦争の目的とは一体何なんだと、政府を厳しく追及をしました。これに対して、陸軍は、「この演説は陸軍を侮辱するものである」、このように激しく反発をして、斎藤議員の辞職を迫り、これに多くの議員は同調して、除名に賛成する票296票、反対票7票。圧倒的な多数で斎藤議員は除名されるのであります。当時の議事録は、今でも3分の2近く、61パーセントなのだそうですが、今でも削除されたままとなっております。
 議会による軍に対する統制機能としては、当然、予算審議というのが極めて重要であります。当時の議会は軍の予算へのチェック機能を果たしていたとは全く言い難い状況でした。昭和17年、1942年、戦争2年目です。それから戦争最終の年である昭和20年、1945年、これにかけましては、軍事費のほとんど全てが臨時軍事費特別会計に計上をされました。その特別会計の審議に当たって、その予算書に内訳は示されていなかった。衆議院・貴族院とも、基本的には秘密会で審議が行われ、審議時間は極めて短く、およそ審議という名に値するものではなかったということであります。
 そして、このような状況の背景には、政治的なテロというものがありました。大正の後期から昭和の初期にかけて、15年の間に現職首相3人を含む多くの政治家が、国粋主義者、青年将校らによって暗殺をされます。五・一五事件、二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府の文民が軍の政策や予算について本音で自由に議論をして行動する環境、それを大きく損なっていったということであります。
 メディアの問題について申し上げますと、1920年代、メディアは日本の対外膨張に批判的で、例えば、当時、気鋭のジャーナリストであった石橋湛山。石橋湛山氏は、有名な、植民地を放棄すべきである、このような論陣を張りました。しかし、世界大恐慌の後、ナショナリズムが広がり、思想界でも全体主義を受け入れる、そういう土壌が形成をされていきます。満州事変が起こった頃から、メディアは、積極的な戦争支持に変わっていきました。それは、戦争報道が「売れた」から。新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。何倍にも発行部数は伸びました。これに多くの国民は幻惑をされて、ナショナリズムは更に高まったということであります。
 その後、1937年秋頃から、言論統制は強化をされ、政策への批判は封じられ、戦争を積極的に支持する論調が支配的になっていきます。
 加えて、情報収集・分析、そのような体制にも問題がありました。これも有名な話ですが、1939年、ドイツーソビエト、独ソ不可侵条約を受けた平沼騏一郎内閣は何と言ったか。「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と、そう言って総辞職をするのであります。これは、世界情勢を正しく把握できていなかったと、この最たる例の一つだと考えております。
 このような歴史を踏まえて、現代を生きる我々は、そこから何を学ぶべきであるのか。
 第一に、現行憲法の下では、日本国憲法の下では、文民統制が制度として整えられ、自衛隊は内閣総理大臣の指揮下に置かれております。内閣総理大臣の下、内閣の統一性も担保されております。国家安全保障会議が設置をされて、外交・安全保障政策の総合調整も強化されました。情報収集・分析体制も改善をされております。その上で、制度は整ったものの、これが適切に運用されなければ意味を成しません。政治の側は、実力組織である自衛隊を使いこなす能力、見識を十分に有さなければなりません。無責任なポピュリズムに屈するようなことがあってはなりません。自衛隊は、国際情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から積極的に説明や意見の表明を行うべきであると考えております。
 政治は、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務がございます。国家としての意思を一元化できないままに国全体が戦争に導かれていった、そのような歴史を教訓としなければなりません。
 政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的な判断を心がけなければならないのであります。開戦に至る過程でも見られましたとおり、責任の所在が明確ではなくて、状況が行き詰まるような場合には、成功の可能性が低くて、リスクが高くても、勇ましい声、大胆な解決策、そういうようなものが受け入れられがちであります。合理的な判断を欠いて、精神的・情緒的な判断が重視されて、国の進むべき進路を誤った歴史を決して繰り返してはなりません。
 第二に、政府が誤った判断をしないように歯止めの役割を果たすのは議会であり、メディアであります。国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。政治は国益を損なうような党利党略、己の保身を取ってはなりません。己の保身に走ってはならないのであります。
 メディアとの関係では、使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要であります。過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。暴力による政治の蹂躙(じゅうりん)、自由な言論を脅かす差別的な言辞、これらは決して容認のできないものであります。
 これら全ての基盤として、歴史に学ぶ姿勢が肝要です。過去を直視する勇気、そして、誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靭(きょうじん)な民主主義が何よりも大切であると考えております。民主主義は完璧な政治形態ではなく、実力組織の前では非常にもろいという面を有しております。文民である政治家が判断を間違えて、戦争に突き進むこともあります。そうであればこそ、また、戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなっている今だからこそ、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的・積極的に考えて、将来にいかしていくことで平和国家としての礎が一層強化される、このように私は信じております。
 折に触れて私が引用いたしております田中角榮元総理の言葉があります。「あの戦争に行ったやつがこの国の中心にいる間はこの国は大丈夫だ。いなくなったときが怖いんだ。だから、若い人たちには勉強してもらいたいのだ」と、そのようにおっしゃっておられました。今の日本にとって、とても大事な言葉だと思っております。
 私が国連一般討論演説でも述べたことでありますが、歴史に正面から向き合うことなくして明るい未来が拓(ひら)けることはございません。私は強くそのように思っております。これを改めて強調させていただいて、私の冒頭発言といたします。
 以上であります。

【質疑応答】

(内閣広報官)
 それでは、これから皆様より総理の冒頭発言、そしてお配りした資料についての御質問をいただきます。
 まず、幹事社から御質問をいただきます。

(記者)
 テレビ東京の横堀です。よろしくお願いします。
 自民党内では、高市総裁を始め保守派の議員から、戦後80年のこの所感を発表することに対して反発の声も上がっています。こうした声について、総理はどのように受け止めていますでしょうか。また、こうした声がある中でも、総理が所感を発表した意義についてどのようにお考えでしょうか。
 もう一点、石破総理は今日、高市総裁と会談されましたけれども、この所感をめぐっては、どのようなお話をされたのかお聞かせください。

(石破総理)
 いわゆる保守派とされる方々、具体的には青山議員の御発言というものを報道で承知をいたしておるところでございますが、こんなものは出すべきではないというような御発言があったと承知をいたしております。
 今の冒頭発言で申し上げましたように、70年談話で提起をされた、なぜ日本の政治システムは機能しなかったのかということについて、私なりに考え、論じたものであります。歴史認識等々については、今までの談話を踏襲をいたしておるところでございます。なぜ歯止めたりえなかったか、なぜ機能しなかったかということについて申し述べたものでございまして、歴史認識について触れたものではございません。
 恐らく、御批判は、もう70年談話でみんな終わっているのだということではないかというふうに承知をいたしておるところでございますが、繰り返しになりますが、それを引き継ぐものでございます。むしろ、70年談話において提起をされた、なぜ機能しなかったかということについて議論をしたものであって、そのような御批判には当たらないというふうに思っておるところでございます。
 また、高市総裁との会談でございます。本日、この所感を発出することはお伝えをいたしました。それ以上のやり取りにつきましては、これは2人だけの話でございますので、これ以上申し述べることはいたしません。
 以上です。

(内閣広報官)
 続きまして、時事通信、丸橋さん、お願いします。

(記者)
 総理、お疲れさまです。時事通信の丸橋です。質問に入らせていただきます。
 現在の政治状況は、総理が既に退陣表明をされておりまして、政権移行の端境期にあると思います。この退陣を目前に控えたタイミングというところで、なぜこのような政治的な意味合いを持つ(内閣総理)大臣所感を出されたのかというところについてその理由をお聞かせください。
 もう一つ、首相は北岡東大名誉教授と面会されるなど、この間ずっと準備を進めてこられました。参考にされた本や文献、または有識者、または準備にかかった期間など、この所感の作成過程についても教えてください。

(石破総理)
 これも先ほど申し述べましたが、3月に硫黄島を訪問をいたしました。その後、フィリピンが4月、沖縄が6月、8月が広島、長崎、そして、終戦の戦没者追悼式、そして、9月の国連演説ということを経て考えを深めていったものでございます。
 今年が敗戦から80年ということでありますし、同時に、新しい首班が決定しますまでは、内閣総理大臣としての職務を全身全霊で果たしていかねばならないということであります。この80年に当たって、70年談話で提起された一体どこに問題があったのかということについて、私なりの考えを述べるということは私の責任であり、同時に、先ほど申し述べました経緯、そこにおいていろいろな方のいろいろなお声を聞いてきました。いろいろな現場も改めて見させていただきました。その結果が今日になったということでございます。
 また、北岡先生とはもう30年以上にわたる、いろいろな御指導をいただいてまいりました。そのほかにも、学習院の井上先生でありますとか、多くの方々からいろいろな御示唆、教えを受けてきたところでございます。
 また、私なりに、これはきっかけは、防衛庁長官在任、小泉内閣で2年目の終わりぐらいであったと思いますが、猪瀬さんの「昭和16年夏の敗戦」という本を知って、これを読んで、自分がこれを知らなかったということに愕然(がくぜん)としたという経験がございます。その後、猪瀬さんの著作、あるいは保阪さんの著作、半藤さんの著作、もちろん、総理大臣の職務をいたしておりますので、そんなに時間があるわけではございませんが、自分として読める限りの書籍は読んでまいりました。もちろんまだまだ十分だとは思っておりません。知らないことがたくさんあったということに反省することばかりであります。ただ、今まで自分が学んできたこと、感じたことというものをまとめるのが今日になったということでありますし、なおこれから先、自分として考えを深めていかねばならないと思っております。

(内閣広報官)
 ここからは幹事社以外の方から御質問をお受けいたします。御質問を希望される方は挙手をお願いいたします。
 よろしいでしょうか。
 では、NHK、太田さん。

(記者)
 NHKの太田です。よろしくお願いいたします。
 総理は所感の中で、先の大戦を踏まえた教訓として、政治家は無責任なポピュリズムに屈しない強靭な責任感を持たなきゃならないと指摘しておられます。ただ、国際社会に目を向けてみますと、アメリカやヨーロッパではナショナリズムを主張する声が高まり、右傾化が進み、分断や対立が先鋭化しています。これが政治への影響も少なくない状況となっていますけれども、この背景をどう分析されますでしょうか。また、どのように対応していくべきだとお考えでしょうか。
 また、所感では政府や議会、メディアの役割については言及がありましたけれども、国民に対しては一人一人が能動的に考えることが必要だというような発言もありましたけれども、国民に対して最も訴えたいこと、このタイミングでお伝えしたいことがあればお願いいたします。

(石破総理)
 今年は(大阪・)関西万博もございました。TICAD(アフリカ開発会議)もありました。90の国あるいは機関の首脳といろいろな議論をさせていただく、そういう機会を得ました。特にヨーロッパがそうですが、分断、対立、そういうのは世界的な、特に欧州、欧米と言ったほうがいいのでしょうか、そこにおいてそういうことがみられます。そういうような首脳たちと議論する中にあって、いかにして対立を生まないか、いかにして分断を生まないか、いかにしてポピュリズムに陥らないかということは議論もし、考えてまいりました。
 やはりそこにおいて必要なのは、強靭な民主主義ということだと思っております。そのときの風潮に流されない。そして、その場さえ受ければいいのだというようなことを言ってはならない。排外主義に陥ってはならない。偏狭なナショナリズムに陥ってはならない。そういうことを私はこの1年間、多くの方から学んだというふうに思っておるところでございます。
 それはなぜ生まれるに至ったかということについては、これは確たる答えがあるわけではございません。ただ、分断と対立というのは、これはもうアリストテレスの時代からあることであって、アリストテレスがその著書の中で、中間層が少なくなるということは分断と対立を生むと、そういうふうに論じております。それはいつの時代もそうなのかもしれません。やはり対立と分断を生んでいく、無責任な言論を生んでいく、そういうような政治を生んでいく、そういうような土壌が作られないように、政治というのは努力をすることが必要なのだというふうに、私は今強く思っておるところでございます。
 そしてまた、国民の皆様方に何を望むかということは、それは先ほども所感の部分で申し上げましたが、やはり歴史を共に考えようということでございます。安倍内閣の下で、また、近代史、近現代史を学ぶ必要性ということが打ち出されたところでございますが、私自身、昭和54年に学校を出ておりますけれども、歴史の時間は明治維新辺りで終わっちゃうと、日露戦争辺りで終わっちゃうと。やはりこれが近現代史であるだけにそのことに言及することにはいろいろなヘジテートというのか、迷いというのか、そういうものがあったのかもしれませんが、やはり今、戦後80年を経て、かなり客観的に歴史に向き合うと、そういうような時代になっておるのだというふうに思っております。
 偉そうなことを申し上げるつもりはありませんが、本当に共に歴史を学ぶ。先ほどの末尾に申し上げましたが、角榮先生がおっしゃっておられた、あの戦争に行った人たちがもう齢(よわい)100に達しようとしておられるわけであります。そういう方々が御健在であるうちに、こういうことを今こそ学ばねばならないということの必要性・重要性を感じておるところであり、国民の皆様方と共にそういうことを学ぶということは政治家の責務だと思っております。

(内閣広報官)
 次は、神戸新聞の末永さん。

(記者)
 神戸新聞の末永です。よろしくお願いします。  80年のメッセージの中で差別や排他主義について触れていました。多文化共生社会を目指す中で、今後、高市新総裁の下で、どんな議論を期待されておりますか。懸念や期待があれば、それも含めてお答えください。お願いします。

(石破総理)
 それは高市新総裁とこの問題、子細に議論をしたということはございません。ただ、新総裁、彼女が当選する前から存じ上げております。そこにおいて、新総裁がまだ20代、30代の頃であったかもしれません。差別とか、あるいは排外主義とか、そういうものは許さないという強い思いを持っておられたという記憶はございます。やはり新総裁の下で、言われなき差別とか、排外主義とか、そういうものは決して我々日本は許さないのだという、そういうような政治であり、自由民主党であるということがきちんと確立されるということだと思っております。私自身、それを強く期待をいたしておるところでございますし、そのことについて党内で忌憚(きたん)のない闊達(かったつ)な議論が交わされると、それは先ほど保守の本質はリベラルだというふうに申し上げました。相手の主張に耳を傾ける寛容さというものを持って言論が行われれば、自ずとふさわしい結論が出るものだと私は今までの経験から思っておるところでございます。

(内閣広報官)
 次は、よろしいでしょうか。
 ビデオニュースの神保さん。

(記者)
 ありがとうございます。ビデオニュースの神保です。
 総理、今日のこの80年、これは談話とは呼ばないというふうに伺いましたけども、これに関しても非常に根強い反対というものがあったという話は先ほどから指摘がありました。今回の談話に限らず、総理が1年間総理をやられていて、いわゆる「石破カラー」と言われるようなものを何か打ち出そうとしたときに、いろいろなやはり党内で反対とか縛りとかがあって、なかなか石破さん御自身が御自分の本当に総理になってやりたいと思ったことができなかった面もあるのではないかというように推察しています。
 そこで、1年間総理をやられて、石破さんの、総理自身、御自身の実感を是非お伺いしたいんですけれども、そこにある、特に自民党内での何らかの対立の構図というんですか、それは路線の違いなのか、特定の考え方の違いなのか、何があって、例えば石破さんが自分がやりたいと思ったことをやろうとしたときにことごとく反対する人たちがいるのか。この80年談話を含めてですね。それが路線だとすると、よく自民党は他党に対して、いろいろな考え方がある人がいるみたいなことを言いますけれども、自民党も実はそういう状態に陥っているのではないかというような疑念も生まれますが、そこについての総理のお考えを伺えればと思います。

(石破総理)
 もういろいろな考え方があります。で、経済が順調に伸びていると、そして人口も順調に伸びていると、そういうときはいろいろな意見の対立とか、そういうものがあまり顕在化しなかったというのが国会議員を40年やっている私の実感でございます。もちろん当時からいろいろな問題はありましたが、経済がどんどん伸びる高度経済成長期、あるいはバブルの時代、あるいは人口が順調に増えていた時代はそういういろいろな対立が顕在化しなかった。しかし、それがそうではないということになったときに、いろいろな意見の相違というものが顕在化するようになってきたのではないかなというふうに私は思っております。
 そうであらばこそ、自分だけが正しいのだということではなくて、なぜこの人はこういう主張をするのか、その背景にはどういうものがあるのか、その意見を謙虚に聴いた上で、自分の考え方は間違っていないだろうかという、そういう自省の念を持つことは私はとても必要なことだと思っております。
 長きがゆえに尊からずですが、自民党の中の議論、あるいは国会内の議論で、自分の考えを改めたことは私自身、何度もあります。自分の考え方が間違っておったということで反省した点もあります。私はそれが寛容さを本質とするリベラリズムであり、我が党はリベラル・デモクラティック・パーティーでございますので、それこそが保守の本質だと私は思っておるところでございます。
 ですから、こういう時代であればこそ、その寛容さというものが必要であって、それをした後、正しく分断と対立というものが政権をお預かりする我が党の中で顕在化するということは決して日本のためではないし、政権政党の一員たる我々は常にそれを心していかねばならないというふうに自戒をいたしておるところでございます。

(内閣広報官)
 冒頭申し上げたとおり、基本的に今日の御質問は冒頭発言及びお渡ししておりますものに基づいてお願いいたします。
 そうしましたらば、CBC、横地さん

(記者)
 CBCテレビの横地と申します。
 戦後80年、市井(しせい)の人々は民間人の立場で何を継承していくべきなのかお考えを伺います。私たちの地元、愛知、岐阜、三重なのですが、もちろん従軍されて犠牲となられた軍人、軍属の方もいらっしゃいますが、愛知では、例えば豊川の海軍工廠(こうしょう)、名古屋では航空機製作所、女子挺身(ていしん)隊員ですとか学徒動員の方たちも多数犠牲となられています。それから、一般の民間人の方も多数犠牲となられています。
 今、例えば政府とか議会、国のありようですとか、メディアのありようについてお考えがございましたが、改めまして、一般の民間人のこれだけの犠牲、この戦後80年、どういうことを継承していくべきなのかお考えを伺います。

(石破総理)
 私は地方創生大臣のときから心がけておることですが、全国北海道から沖縄まで回りますときに、必ずそこが戦争においていかなる被害を受けたかということをできるだけ調べて、そこの町でお話をさせていただいております。北海道は、なかなかサイパンなどから遠いもので、B-29が届かなかったとかということもあるのですが、しかしながら、室蘭が艦砲射撃でものすごく被害を受けたということもございます。
 先ほど御指摘の豊川海軍工廠、これは昭和20年8月か7月だったと思いますが、多くの女子挺身隊というのでしょうか、そういう方が犠牲になった。三菱の航空機製作所もそうであったというふうに思っております。
 私は、これはものすごく自分で大切だなと思ったのは、岐阜空襲でなぜあれほど多くの方が命を落とされ、大垣空襲では記録する限り50人という非常に桁が1つ違う亡くなられた方の数だったのかということは、結局、防空法によって、市民は「逃げるな、火を消せ」ということであったと。空襲があればバケツリレーで火を消せということで、岐阜空襲のときにそういうことを徹底するために送られたのは大垣の部隊だった。そこで大勢の人が亡くなるのを見て、次は大垣だと。「逃げるな」なぞと言ったらば、民間人の人が多く犠牲になるということで、大垣の部隊は市民の避難ということをむしろ誘導したのではないかと、いろいろな記録を見る限りそうでございます。
 結局、いかにして民間人の犠牲を少なくするかということは極めて大事なことであって、私は、防空法という法律の成立過程も、随分議事録も読みました。焼夷弾(しょういだん)は怖くないと、逃げるな、火を消せと、前線の兵隊さんが一生懸命に戦っているときに火から逃げるということがあってはならないというような、先ほども冒頭発言で申し上げましたが、情緒的な、精神的な結論に導かれて、大勢の人が落命するということがあってはならないことだというふうに思っております。そこにおいて合理的な判断、そして基本的人権、人命の尊重ということは、国家としてきちんと優先されねばならないということ。ですから、愛知であり、あるいは岐阜であり、名古屋であり、大垣であり、そういうところのいろいろな空襲から学ぶ点はたくさんあるし、それは九州でも、四国でも、中国でも、東北でも、日本どこでもそういうお話はあるのであり、決してそのような記憶を風化させることがあってはならないと改めて思っておるところでございます。

(内閣広報官)
 それでは、次に、TBSの中島さん。

(記者)
 TBS、中島です。よろしくお願いします。
 今回所感を発表する上で、様々な観点で検証されてきたかと思うのですけれども、一番訴えたい部分についてはどこの部分か。まず、今回検証しきれずに、今後も検証していきたいと考えているものが伺えたらと思います。
 それと、参議院選挙では、ポピュリズムですとか排外主義と見られる主張も一部見られましたが、今回見解の発表に当たって、そういった国内の情勢の変化というのも、その見解発表の背景にはあったのか、お伺いできたらと思います。

(石破総理)
 後段からお答えすれば、あくまで一般論として申し上げたものであって、国内の政治状況というものを念頭に置きながらこの所感を書いたものではございません。一般論として、先ほどヨーロッパの例を申し上げましたが、そういう現象が起こっておるのは日本に限ったことではございません。いかにしてそういうような土壌というものを変えていくかということは、人類共通の課題であるというふうに思っております。
 今回悩んだ点、検証しきれなかった点というのは、私ももちろん総理大臣の職をお預かりしております以上、国務最優先でございます。トランプ関税もございました。いろいろな災害もございました。コメの問題もありました。日々起こる物価高騰等々、そういうものの対策に、何というのでしょうね、資力というものは割いていかねばなりません。その中で少しでも時間を見つけて、いろいろなものを改めて読み直しましたが、それは全然十分ではないと思っています。恐らく、読まねばならない本の何分の1も読めていないと思います。やはりそのことは、これから先、いろいろな角度から、二度と戦争を起こさないというために、二度と本当に罪もない人たちの犠牲というものがあってはならないという観点から、更に更に自分として徹底的に勉強していかねばならないというふうに考えておるところでございます。
 ただ、私として、この1年間、可能な限りの文献には当たってまいりました。可能な限りの方のお話は聞いてまいりました。それが今回の所感でございます。更に努力をしなければならないということは痛感をいたしておるところでございます。

(内閣広報官)
 次に、東京新聞、川田さん。

(記者)
 中日新聞・東京新聞の川田と申します。
 総理、所感でも触れられた斎藤隆夫の反軍演説について、与野党の間では、一部削除されたままの議事録の全文復活をさせる動きがあります。院のこと、ハウスの動きで言及するのは難しいとは思いますが、石破総理御自身は、この復活させる意義や必要性についてどう考えているか。
 また、先の大戦の歴史認識に関して、所感では、歴代内閣の立場を引き継ぐと触れたのみになっていますが、村山談話を始め過去の3つの総理談話では書きぶりがそれぞれ異なっていた、先の戦争は侵略であり植民地支配だったのか、また、そのことに対する反省とお詫びについて、石破総理のお考えをお伺いします。

(石破総理)
 斎藤隆夫代議士の演説については、これは今で言う豊岡市出石(いずし)というところの御出身であります。但馬国です。私ども因幡の国と隣でございまして、私が議員になります前から本当に親しく御指導いただいていた谷洋一先生の御地元です。私は農林水産副大臣として谷大臣にもお仕えもいたしました。本当にいろいろなときに、折に触れて、「斎藤隆夫がね」という話をしていただいています。そして、その御子息であられる谷公一代議士からも、斎藤隆夫の話は何度も何度も聞かせていただき、その記念館にも訪問をさせていただきました。これは特別な思いがございます。
 もちろん議事録は3分の2近くが削除されておるのでありますが、当時、ICレコーダーなんていうものはなかったのだけれども、恐らく録音盤があったのでしょう。あるいは公共放送の「その時歴史が動いた」という番組がありましたが、そこでも肉声が、今でもYouTubeを引くと出てくるんじゃないでしょうか。
 斎藤隆夫について書かれた本に、ほとんどその演説、全文が出ています。それを何回読んでも本当に感動します。これは、それからもう85年かな、たっていて、いまだにそれが削除されたままということは、日本の議会にとってあっていいことだと思わない。そして、削除の過程を今回改めて検証してみて、それを削除したままであることがあっていいと思いません。
 おっしゃいますように、これは行政府の長として申し上げるべきことでは決してございません。議会のお話でございますので、総裁在任中に、当時幹事長であられた森山幹事長にお願いをして、自由民主党、そしてまた立憲の長妻代議士を始め、このことにはものすごく強い思いを持っておられる方があります。これは与党がどうの、野党がどうのという問題ではない。この削除部分の復刻について、これから先そういう動きが戦後80年の今年できたらいいなということでございますが、今の立場は所管外でございますので、これ以上のことは申し述べられません。
 歴史認識ね。これは50年、60年、70年談話というものを、これを引き継いでいるということは申し述べたとおりでございます。この書きぶりはそれぞれ少しずつ異なっておりますが、基本認識が違っているとは、私は何度も読みましたが、考えておらないところでございます。反省とか、お詫びとか、そういう気持ちを含めまして、これを引き継いでいるものでございまして、これに新たなものを付け加えるというものでは全くございませんし、そのつもりもございません。

(内閣広報官)
 では、次に御質問を希望される方はいらっしゃいますでしょうか。
 そうしましたらば、信濃毎日の中野さん。

(記者)
 信濃毎日新聞の中野です。
 二度と戦禍を繰り返さないために歴史に学ぶべきだという御指摘には、私もメディアの一員として共感します。ただ、現実には、南西諸島で防衛力の増強というのが図られていて、沖縄県の人たちには特に重い負担がかかり続けています。集団的自衛権に続いて反撃能力の導入、防衛費の大幅な増額、あと武器輸出の事実上の解禁と、こういう一連の政策がほとんど十分な議論がないまま決定されてきたと受け止めています。今回のような所感をお示しになられた総理として、今の状況というのをどういうふうにお考えになられているか、また、防衛政策の拡充ということのほかにどんな方策が戦争の惨禍を繰り返さないために必要だというふうにお考えになられているか、お聞かせ願いたいと思います。

(石破総理)
 私自身、長く安全保障政策も担当いたしてまいりました。有事法制もそうですし、普天間基地の移転につきましても、大臣としてあるいは自民党の安全保障政策の責任者の一人として関わってまいりました。私は、必要なのは、抑止力には懲罰的・報復的抑止力、倍返しだよみたいな話ですね。それが嫌ならやめておきなさいという懲罰的・報復的抑止力、これは日本は持ちません。そういうものを。むしろ、やれるならやってみろと、あなた方が思ったような効果は決して現れないからやめておきなさいという拒否的抑止力というものを持つことは、日本にとっては極めて大事だというふうに思っております。いわゆる報復的抑止力については、これはアメリカに委ねると、日本はこれを持たないということになっております。ミサイル防衛でありますとか、あるいはシェルターでありますとか、そういうものはやっても効果がない、ミサイルは撃ち落としますよと、民間人は決して犠牲になりませんよという、そういう拒否的抑止力の中核をなすものだというふうに思っております。
 この沖縄において、私は今年も沖縄に訪問して、これは沖縄にいろいろな御議論があることはよく承知をいたしておりますが、民間人の方が決して戦渦に巻き込まれることがないように、そして我々から報復的・懲罰的な抑止力を加えることはないけれども、この地域において不測の事態が起こらないように、そういう備えをすることは必要なことだと思っております。(在日米軍施設・区域)専用(施設)面積の7割が沖縄に集中しているということは変わらない事実でございまして、これを本土においていかに引き受けることができるかということは、今もその努力を続けておるところであって、沖縄の負担をどう減らすか、いかにして戦渦に巻き込まれないようにするかということについて、今後とも更なる努力をしていかねばならないと思っております。
 同時に、これは議論の中において、例えば、中国とロシアとの連携はどうなのだと、この地域における軍事活動をどのように評価し分析するかということはございます。そこにおいて抑止力の強化ということも必要ですが、偶発的な事態によって戦火が拡大する、戦火が交えられるということがないように、ミスカルキュレーションの防止ということには、更に更に努力をしていかねばならないということだと思っております。
 ですから、いろいろな国との間において意思疎通を行う、ミスカルキュレーションが起こらないような努力をする、信頼関係を醸成するということは、今後とも更に戦後最も厳しい安全保障環境であらばこそ、そういう努力が更になされるというふうに確信をいたしておるところでございます。

(内閣広報官)
 読売新聞、田島さん。

(記者)
 読売新聞の田島です。お願いします。
 総理、今回の所感では文民統制の欠如など政治システムに焦点を当てて検証されていらっしゃいますけれども、それを担った政治指導者らの責任についてはどのように評価されていますでしょうか。
 また、過去の戦後50年、60年、70年の談話では、諸外国から様々反応がありましたけれども、今回の所感を通じて諸外国にはどういったメッセージを発したいというふうにお考えでしょうか。以上、お願いします。

(石破総理)
 これはもうくどいお答えになって恐縮ですが、システムはなぜ機能しなかったかという点に焦点を当てて論じたものでございます。個々人の責任について論じるという性質のものではございません。
 今回本当に改めて思ったのは、責任の所在が明らかではないと。そういう状況においては、やはり勇ましい声とか、大胆な意見とか、そういうものに引きずられることがあるのだなということでございます。そういうときに、情緒的な非論理的な結論に導かれやすいということは、今回いろいろな経緯を読んでみて、そういうことはあったのだと。
 それは遠い昔の話でしたよということではなくて、今日の我々においてもそういうことがありはしないだろうかと。誰がいかなる責任を負うべきかということ、やっぱりこれを言うとあの人の立場がなくなるからなとか、これを言うと何となく自分の立場が悪くなるからなと。そういう責任の所在が明確でないときには、そういうような声に引きずられて非論理的な結論に導かれることは、今の社会においても私はないとは申しません。ですから、そういうことを、過去そういうことがあったのだと、民間人も含めれば、310万人ですか、そういう人が命を落としていったということでございます。
 私は、亡くなった方々の9割は戦争末期に集中しているということは、これは統計上明らかなことでございます。何で昭和19年から20年にかけての戦争末期に亡くなった方の8割、9割が集中したか。そして、そこでなぜ止めることができなかったか。そして、いわゆる戦争に行かれた方々の6割は、戦火を交えたというよりも、餓死であり、病死でありということであったという事実をどう考えるかという点については、なおなお、自分として今後更に勉強していかねばならないと思っておるところでございます。
 したがいまして、そうしますと、個人の責任がどうだというような議論、それを今回論じるということは本来の目的とは異なりますので、そういうことには触れなかったと。システムについて論じたということでございます。
 諸外国ね。これはむしろ国内に向けて考えてみましょうということでございます。ですから、50年談話、60年談話、70年談話において、諸外国に対して我が国としての考えを表明したものでございまして、私もそれを踏襲するということでございます。国内に向けて、本当にもう一度、教訓・反省というものを今考えたいと、そういう意図でございます。

(内閣広報官)
 次は北海道新聞、吉田さん。

(記者)
 北海道新聞の吉田と申します。よろしくお願いします。
 総理は所感で、言論統制が強まる中で政府や議会やメディアが軍部に対するチェック機能を失っていったと指摘されています。その関連で、今、自民党の高市早苗総裁を始め、複数の野党からもスパイ行為を取り締まる法制の整備の主張がなされています。こういった法制は、内容によっては国民の日常生活の行動にまで、行動やあるいは報道機関の取材活動まで対象が拡大されるという懸念も指摘されています。
 総理は今の日本にとって、こういったスパイ行為を取り締まる法制が必要とお考えかどうかということをお聞かせください。また、その理由についてもお聞かせください。

(石破総理)
 これは諸外国との比較をもう一度綿密にしてみる必要があると考えております。このいわゆるスパイ防止法については、私が初当選した昭和61年もずっと議論がございました。昨日今日始まったお話ではございません。今でもそうですが、いろいろな報道等、そういう行為についての事件もございました。裁判例もございます。そこにおいて、国家公務員法、そのような法律によって、今、そういう体制が本当に不十分なのかどうかという点については、これから自由な検証というものが必要だと思っております。
 憲法21条によって保障されております表現の自由というものは守らなければならないということは、累次国会でも答弁を申し上げているところでございまして、この報道の自由というものを守っていきながら、いかにして国益を維持していくかということについて、常にこの憲法等の規定というものを念頭に置きながら、今後更なる議論は進められるべきものだということだと思います。その際は、現行法においてもし不備がありとせば、どのようなことであったのかということについて、判例、判決、決定を見ながら、精緻な議論というものをしていかねばならないと考えております。

(内閣広報官)
 朝日新聞、西村さん。

(記者)
 朝日新聞の西村と申します。よろしくお願いします。
 私はちょっと所感の内容とプロセスについてお伺いします。
 こちらの頂いた所感を見たのですけれども、国内の史実については、歴史については教科書的に網羅されて触れられていると思うのですけれども、では、果たして当時の国際情勢はどうだったのか、外交面でどうだったのかという対外的な理由の部分、なぜ戦争に至ったのかが検証されていないように思いました。
 また、一議員ではなくて首相という立場で出す以上、この先、今日への教訓についても、現在の国際情勢などを踏まえて書かれるべきかと思うのですが、そういった言及もございませんでした。
 先ほど語られた安全保障政策などについての質問にも語られていましたけれども、そういった要素も入っていなかったことに関して、なぜ触れられていないのかというのが一点と、また、その決定プロセスについて、退陣が迫る中で、限られた時間の中だったので、そういった検証が不十分だった点はないかという問いに対してはどのようにお考えでしょうか。会議体が作られるわけでもなく、決定過程が不透明な中ですけれども、それについて御見解をお聞かせください。お願いします。

(石破総理)
 これも先ほど申し上げましたが、約30年近くにわたって、いろいろなことは考えてまいりました。いい加減な考えの下で書いたものではございません。30年間、それは猪瀬さんの本だけではなくて、例えば秋丸機関というものが何を論じておったか。あるいはそこにおいて石橋湛山が何を論じていたか。そういうことは可能な限りそういうものに当たってきたものであって、いい加減な考えの下に作ったものではございません。そういうことの責任は、総理大臣として出すことの責任は十二分に自覚をして作ったものでございます。
 ただ、外国の情勢がどうであったか等と書き始めますと、これは大論文になってしまいますので、今でも70年談話の倍近い分量にはなっております。そうしますと、今、自分の認識、特に政治というものがシステムとしてなぜ機能しなかったのかという点に焦点を当てておりますので、このようなものになっております。
 諸外国の情勢を考えれば、これは本文には触れておるところでございますが、例えば1929年に大恐慌というものが起こりました。そこから特に欧州において不況というものが拡大をした、そこから全体主義というものができてきた、あるいはソビエトというもの、ロシア革命が確か1917年だったと思いますが、そこにおいて社会主義、そして自由主義というものが否定をされ、資本主義というものが否定をされ、数字の上だけ見ると、ソ連だけが大恐慌の影響を受けなかったというふうに言われていますが、内実は相当に苦しいものであったと承知いたしております。
 アメリカはニューディールというもので経済復興というものを図られていったことについて、全く触れていないわけではございません。そういうことについて、日本の政治との関連で必要な部分というものは触れたつもりでございます。もちろん、十分ではございませんので、それは本来のシステムとの関係で必要なものを論じたということに尽きます。
 今後、更なる研究はしていかねばなりませんが、いい加減なつもりで書いたものではございませんし、推敲(すいこう)も約20回にわたって行っておるものでございます。その点については、自分として責任を果たすという思いでこれを書かせていただいたものでございます。

(内閣広報官)
 江川さん。

(記者)
 フリーランスの江川紹子と申します。よろしくお願いします。
 この所感の中で、言論空間が排外主義や差別、偏狭なナショナリズムに陥ってはいけないということが書かれていますし、先ほどのお話でもそうありました。
 ただ、今は、そういった戦争が起きる頃の環境とは随分、言論空間の様相も変わっております。そういう中で、排外主義や差別、偏狭なナショナリズムに類するようなものが、随分いろいろな発言が飛び交っているのが現実だと思います。
 その点についての総理の御認識を伺いたいのと、それをどうするかという具体的な対策についても、もちろん、寛容なとか、そういうことはとても大事なのですが、何か具体策、例えば国際人権法に沿った包括的差別禁止法を作るとか、何かそういった具体策みたいなものは、御提言は、あるいはお考えはないでしょうかということを伺いたいと思います。

(石破総理)
 当時と今では法体系も違いますし、いろいろな臣民、「臣民」と言っていましたね。「国民」という言い方はしないで、「臣(おみ)」という字を書く、臣民の権利が制限の下で認められていたというのが帝国憲法下の法制であったというふうに認識をいたしております。
 現行憲法下におきましては、基本的人権、報道の自由、表現の自由というものが認められております。そして、これは条例からスタートしますが、新聞(紙)条例、出版条例等々によって様々な規制が行われてきたし、同時に、報道機関の中において自発的に規制したこともあったというふうに承知いたしておるところでございます。
 そういうことは、今はございません。放送法というものの趣旨もよく御存じのとおりでございます。
 そうしますと、そのような法的にそういう言論の自由というものを抑圧するようなものはございませんが、では、今、どうなのだろうねということを考えたときに、もちろん、その自由の中で過度なポピュリズム、あるいは偏狭なナショナリズムというものが、これも言論の自由の範囲内でございますので、そういうものを抑制するということは、制度的には難しいと思っております。
 そうではないのだという言論が、いかにしてそういうものを凌駕(りょうが)していくかということは、むしろそういう側に立つ者が更に努力をしていかねばならないということではないのでしょうか。実際、自分の体験から言って、それがすごく難しいことはよく分かっておりますけれども、私はそういう偏狭なナショナリズムとか、過度なポピュリズムとか、そういうものに打ち勝つためには、我々の側が、我々の側と言ってはいけませんね、そうではない立場に立つ側が、本当に更に、更に努力をしていかねばならないということだと思っております。
 新しい立法は、国際的に遜色のないものにしていかねばなりません。何もこのことだけに限ったものではございませんが、国際的な立法のすう勢から見たときに、我が国として、なお改めるべき点はないかということは、今後、更に私自身、努力をしてまいりたいと思っております。これは、人を批判するというよりも、自分が更に努力をしていかねばならないねということを痛感して、この所感を書かせていただいたものでございます。

(内閣広報官)
 続きまして、中国新聞の堀さん。

(記者)
 中国新聞の堀と申します。  総理は、今回の所感の中で、広島や長崎の原爆死没者の慰霊式典のことに触れられております。ですが、所感の内容に関しては、原爆であるとか核兵器、あるいは被爆者に関しては触れられておりません。この点が、唯一の戦争被爆国である日本として、この点がなぜなのかというのをお伺いしたいのと、大戦末期にアメリカから原爆投下されているわけなのですが、これについて、日本が途中で戦争をやめる、もしくは原爆投下を避けるための日本の責任というところについて、どういうふうにお考えか、お聞かせください。最後に、日本政府は、戦後については、アメリカに原爆投下について抗議してきておりません。80年たっても苦しむ被爆者がいる中で、そうした対応について、適切だったと考えておられるかどうか、御見解をお聞かせください。

(石破総理)
 我が日本国政府といたしまして、広島、長崎に対する原爆投下は、多くの尊い命を奪った。その時のみならず、今に至るまで病気や障害などで苦しんでおられる方々が言葉に尽くせない苦難を強いられておるということでございます。そのことは間違いない事実であります。
 政府といたしましては、かねてから、核兵器の使用は、その絶大な破壊力・殺傷力のゆえに、国際法の思想的基盤にある人道主義の精神に合致しないということは、政府として明らかにしてきておるところでございます。
 先般の国連総会の演説で申し上げましたが、最終的には「核のない世界」というのを目指していかねばならない、その思いは私も共有するものでございます。そうしますと、今の拡大抑止に基づく核抑止力というものをどう考えるかという問題に逢着(ほうちゃく)することになります。私は、この国を今でもお預かりしている者として、皆さんとの議論も踏まえながら、いかにして「核戦争のない世界」を実現するかということを考えていかねばなりません。そこにおいては、核保有国も加盟しているNPT(核兵器不拡散条約)という、その場を最大限に活用するということが大事だということだと、私は今も確信をいたしているところでございます。そして、そこでNPTにおいて核拡散というものをいかにして抑えていきながら、そこにおいてきちんとした抑止力が働き、その核が拡散しないように最大限の努力をしていきながら、最終的には「核のない世界」を目指していくということでございます。
 それはもう理屈でこうだということを言えるものではありませんが、私は国連の演説で申し上げました。広島、そして、長崎にできるだけ大勢の方に来ていただきたいと。どれほど悲惨なものであったかということを見れば、本当にこの核の拡散も核の保有も許されないということ、認識を実感として持つはずでございます。「核がない世界」、それを作っていくことが、あの核兵器によって犠牲になられた方、今も苦しんでおられる方々、そういう方々に対する我々の責任だというふうに考えているところでございます。
 以上です。

(内閣広報官)
 日本テレビの平本さん。

(記者)
 総理、日本テレビの平本です。
 今回の所感の中ではメディアについても触れられています。「今日(へ)の教訓」というところでも触れられていて、過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズムを許してはならないとあります。ただ、一方で、今質問でも出ていますように、海外に目を向けても分断と対立が進み、日本の中でも昨今の国政選挙を見ると、偏狭なナショナリズムが助長されているといった指摘もあります。そういった日本の状況も踏まえた中で、今の日本のメディアに対して、総理自身がどういった問題意識、課題感を持っているのか、未来に向けた健全な強靭な民主主義が大切という中で、日本のメディアに求められるものは何と考えられるのか、この所感を書くに当たって総理が考えたことを教えてください。

(石破総理)
 メディアの方を前に口幅ったいことを申し上げるとお叱りを受けるかもしれませんが、やはりメディアというのは社会の公器であると。公の器であるということは、認識し過ぎてもし過ぎることはないというふうに思っております。それが電波であっても、あるいは紙媒体であっても、そのメディアというものは社会の公のものであって私的なものではないということが一つあると思っております。
 また、社会の木鐸(ぼくたく)とか言うと、何それみたいなことを言われますが、若い人に木鐸というとそれ何と言われちゃうのでありますが、やはりそういうのは、過去も未来も変わるものではないと思っております。
 所感の中にも書きましたが、売れればいいというものではないだろうということ。それは、商業ジャーナリズムの方々も大勢いらっしゃいますし、スポンサーもおられるわけでありますが、でも、それが公器であり木鐸と言われるゆえんは、単なるジャーナリズム、売れればいいということではないのだという矜持(きょうじ)をメディアの方々がお持ちいただくということだと思っていますし、私は、メディアと権力が一体化するのが一番怖いのだと思っております。そうしますと、誰も批判をしなくなってしまうということですし、これはもう我々も心しなければなりませんし、メディアの皆様方にも心していただかねばならない。それは、我々も特別職ではございますが公務員でございますので、公のために働くということであります。社会の公器の一員であられる皆様方も公のためにいうことであって、口幅ったいことを申し上げて恐縮ですが、そういう思いをいかに共有するかということであり、それが、共に、何というのでしょうね、一体化するということによって、この国は一回、道を誤っていませんかということでございます。それを可能とするような言論統制というものがあったのがかつての歴史であり、そういうことは何があっても繰り返してはならない。ただ、SNSという新しいメディアが出てきているときに、これにどう対応するかということは、今後本当に、私は結論を申し上げるつもりは全くございませんが、それによって社会が大きく左右されるということについて、これをどう考えるかは、言論の自由、表現の自由との関係もよく考えながら、早急に諸外国の例も見ながら答えが出されるということが、今後期待されるというふうに考えておるところでございます。

(内閣広報官)
 では、香港フェニックス、リさん。

(記者)
 香港フェニックステレビのリと申します。
 総理、先ほど、今回のこの所感の中に、歴代内閣の歴史認識を継承していくと、引き継ぐというふうに述べられました。外国では、日本の歴史認識に注目しています、今年80周年ということもあり。総理としては、この過去の戦争を侵略戦争と見ているのか、そして、謝罪についてですが、2015年の安倍談話では、次の日本のこどもたちに謝罪を続ける宿命を負わせてはなりませんといったような表現がありました。石破総理は、この点について、謝罪の在り方についてどのように見ていらっしゃるのか、御見解をお聞かせください。

(石破総理)
 それは、先の大戦、これは太平洋戦争という言い方は、戦後、連合国、特にアメリカによってつけられたネーミングでございます。大東亜戦争という言葉は、かなり、一種の価値観を持って受け止められる危険性というか可能性がございますので、先の大戦という言い方をいたしますが、それは、日本と中国との争い、そして、12月8日、昭和16年から始まります対米、対英の戦争、それぞれいろいろと対応、性格が異なっているという指摘がございます。しかしながら、過去、私どもの政府におきまして、侵略ではないというようなことを申し上げたことはございません。それは同じ立場に私自身立つものでございます。そこはきちんと認識をしなければいかんだろうと。
 そしてまた、70年談話において、次の世代に引き継ぐかどうかというお話がございました。実際にその当事者ではないわけでございますから、それは実際にそういう当事者性を有しているかどうかについて言えば、それは有していないということだと思いますが、私が防衛庁長官のときにシャングリラ・ダイアローグでシンガポールに参りましたときに、当時のリー・クァンユー上級大臣から、日本が戦争中にシンガポールで行ったことということについてあなたはどれほど認識しているかという問いを受けました。そのことについて私は教科書レベルの知識しかなくて、あなたはそれしか知らないのかということで非常に厳しい指摘を受けたということは一つの私の原点でございます。かつて日本が中国において、あるいはアジアにおいてどういうことをしていたのかということについて正確な認識を持つということは必要なことだと思っております。そういうことが、私たちは忘れても、それぞれの地域の人たちは忘れていないということも我々はよく認識をしなければなりません。
 今年、大阪・関西万博もございました。そこで私は可能な限りその国と日本との関係、それは戦争中も含めて知るように努力をいたしてまいりました。それを知っている、知っていないというのは全く違うと思っております。まずそれを知る努力というものを、責任を取る、取らないという当事者性の話とはまた別に、そこにおいて何があったのか、インドネシアにおいてどうであり、フィリピンにおいてどうであり、中国においてどうであり、そういうことについて日本人はきちんと真摯に歴史に向き合っているねという評価、これは重要なことだと思っております。日本がこれから先、世界に対していかに役割を果たしていくべきかということにおいて、日本が諸外国から歴史に誠実に向き合っている国だというふうな、そういうような認識を受けるということは我が国の国益にとって絶対に必要なことだと私は確信を持っておるところでございます。

(内閣広報官)
 かなり長くなってまいりましたが、あと御質問がある方は今、手を挙げていらっしゃる3人の方ですね。
 そうしましたら、まず西日本新聞の岩谷さん。

(記者)
 西日本新聞の岩谷です。
 歴史に学ぶという御発言、御指摘をずっと今、されているとは思うのですが、自民党の中では度々歴史修正主義というように指摘されるような御主張をされる議員の方もいらっしゃいました。直近で言えば西田参院議員による沖縄戦に対する御主張というのもこれに該当するかと思います。
 戦後80年を迎える中で、こうした歴史修正主義、自分に都合良く歴史を解釈するというようなそういった動きについて、総理自身、どういうふうに見ていらっしゃるのか。更に言えば、なくすためには何が重要だとお考えかお聞かせください。

(石破総理)
 私は歴史修正主義ですよと標榜(ひょうぼう)する人に私は会ったことがないので、どなたが歴史修正主義でどなたがそうではないか断定をするだけの知識を持っておりません。
 やはり私、今回のいろいろな作業の中で痛感したことですが、自分が知らないことがいかに多いかということでございます。可能な限りいろいろな書籍に当たりました。いろいろな人とも話をしました。で、知れば知るほど自分が知らないことの多さに愕然とするような経緯だったと思っています。
 ですから、修正する、いや、今までの考え方は間違っているのだと言うときには、それはましてや歴史でございますので、自分がどれだけそれに向けて真摯な努力をするかということが問われているんだというふうに思っております。
 今、御指摘の事項につきましても、沖縄においていろいろな議論があるということでございます。そこにおいてはやはり可能な限り沖縄に足を運び、何せ4人に1人が命を落とされたという沖縄でございますので、私も先般、関係の方にお会いをして話を聴く機会がありましたが、どれだけ実際にそういう方々のお話を聴くのかという真摯で誠実な努力なくして歴史について発言をするということは控えねばならないことだと思っておるところでございます。私自身、更に勉強する必要性を痛感をいたしておるわけでございます。

(内閣広報官)
 大川さん。大川さん、どうぞ。

(記者)
 お疲れさまです。フリーランスの大川興業総裁、大川豊です。御無沙汰しております。
 すみません、機能しなかったということに関してちょっとお伺いしたいと思います。私の母は、リトル・ペンタゴンと言われているキャンプ・ドレイクで戦後ずっと働いておりました。そのときにベトナム戦争、そしてプエブロ号事件、そしてその後、拉致被害者の問題がありと、決して日本がずっと平和であったという認識がなかなかありませんでした。特に、今の文民統制のお話もあったんですけれども、今の政治システムでこの国防というものができるのか。いわゆる何が言いたいかというと、私、海外でペンタゴンも行っておりますが、やはり戦争時においての政治での実戦経験というのがすごく大切だと言われています。軍人だけではなく政治的にどう対応していくかという実戦経験がものすごく戦争においては大切だというふうに言われておりまして、日本は防災訓練みたいなのは行われているんですが、日本での軍事シミュレーション、要するに本当に政治家全員が有事が起きたときにどう対応するか、例えば、沖縄の方を台湾有事のときにどう避難させるのか、与那国の人をどう避難させるのかというシミュレーションが全く今まで行われていないと私は思っております。総理の、この今後の、戦後を踏まえてどのように平和システムが機能しているのか、政治システムが機能しているのかお考えをお聞かせください。

(石破総理)
 ありがとうございました。
 今回学んだことの一つは、結局、日中の戦い、そしてまた、日米、日英、戦争に突入していったときに、日露戦争の経験を持っている軍人がほとんどいなくなっていたということなのですよね。つまり、日露戦争の、例えば東郷平八郎元帥がロンドン軍縮条約において反対派の頭目としていろいろな発言をなさったというのが恐らく最後なんでしょう。乃木将軍は明治天皇に殉死されたのでありますから。要は、日露戦争の経験のある者はいなくなって、頭の中で考える、いわゆる軍事秀才だけがいろいろなことを決めていったということが背景にはあったということは、私は確かなことなんだろうと思っております。
 そうしますと、大川総裁と私と多分似たような年なのですが、こどもの頃、ベトナム戦争というのは身近でした。そして、B-52は、まだ米国の施政下にあった沖縄から飛び立っていきましたし、そういう、まだ我々の年代は、昭和30年代に育った者は、戦争の焼け跡がまだあちこちにありました。防空壕(ごう)も残っていました。戦争経験者は周りにいっぱいいらっしゃいました。それがだんだんと風化していく、だからこそ、本文でも申し上げましたが、能動的・積極的にそれを学ぶという姿勢、これが必要なんだと思っています。
 先ほど、政府の訓練というのは防災演習みたいだねという御指摘でした。やはりその訓練というのは、なるべく実際に起こった、起こるであろうことに近い、そういうものでなければならないし、全てシナリオが事前に決まっているような訓練であってはならないし、そこにおいて意思決定をする責任がある総理大臣であり、あるいは担当閣僚でありというものが、きちんとした知識の下に参加をしないと、決していい結論は得られないということだと思っています。
 この夏にNHKのドラマで「シミュレーション」というのがありました。御覧になった方も多いだろうと思っています。そこにおいて、彼らが緻密に緻密にいろいろなことを30代の若い人たちがやっていった、そこにおいて、これは史実だと思いますが、諸君の研究には偶然の要素が欠けているということを言った。これも多分事実なのでしょう。ですけれども、そういうような本当に実際にきちんとしたデータによって行われる、そして、決定する責任者という者がそこに参加しないと意味がないのだということだと思っています。
 ですから、それはいろいろな戦史の研究があって、そこにおいて可能な限り現実に近いものをやっていく。そこにおいて残念な結論を避けるために、論理を逆に作るようなことは、絶対あってはならぬのだということ。それは日露戦争を経験した者がいなくなっちゃたので、あの戦争になりましたと。それは角榮先生がおっしゃった、あの戦争に行ったやつが今いないじゃないかということ、恐らく生きておられればそうだろうと思います。そのことを本当に戦後80年の今、我々は本当に強く認識をしなければいかんということで、御指摘はそのとおりでございます。更に努力はさせていただきます。

(内閣広報官)
 そうしましたら、最後になりますが、京都新聞、田中さん。

(記者)
 京都新聞の田中と申します。よろしくお願いします。
 総理は参院選前に、党所属のひめゆりの塔をめぐる発言が沖縄県民から批判を浴びる中、沖縄慰霊の日にひめゆり平和祈念資料館を訪問されました。先ほど発表された所感は、政治家の歴史認識をめぐる発言を踏まえての問題意識なのでしょうか。所感の中では、歴史に学ぶ姿勢というのを強調されておりましたが、所感に込めた総理の思い、沖縄戦の歴史認識についてお聞かせください。よろしくお願いします。

(石破総理)
 先ほどのお答えと重複したら恐縮でございますが、いろいろな政治家がいろいろな発言をいたしております。その一つ一つというものを念頭に置いて、あの所感を発出したものではございません。人のいろいろな考え方を批判するということも、それはあることだと思いますが、私は、あのときにひめゆりで可能な限り一生懸命お話をしたつもりでございますが、やはりそれは違うんだよという御批判を頂いていることも承知をいたしております。そこにおいて、実際にひめゆりで亡くなられた方の御友人、実際にそこであのような悲惨な体験をされた方、そういう方々からできるだけ直接お話を聴くという努力はしていかねばならないのだと思っております。
 書かれたもの、そういうものを可能な限り読みますが、実際にひめゆり学徒隊というのですかね、そういう方々のお話を聴く機会というものが、今後もなければいけないと思っていますし、あそこの祈念館を見て、あの写真を見て、改めて教えられることはたくさんありました。歴史に対する真摯な向き合い方というのはそういうものだと思っておりまして、自分自身、まだそれが十分でないということを反省いたしておるところでございます。

(内閣広報官)
 以上をもちまして、石破総理の記者会見を終了いたします。本日は大変長い間、御協力ありがとうございました。

 

 


 

 

 

とても考えさせられる談話、所感です。

 

 国民が当時の軍部、政治、メディアによって煽られていった、というところは、その通りでしょう。

 

そして適切な政治システムが機能できず戦争を止めることができなかった。

 

煽られているという点では今もその状況は変わっていないのではないでしょうか?

 

私は、メディアと権力が一体化するのが一番怖い」、これは近年ではコロナ禍がそうでした。地方メディアと某政党の関係もまさにそれを示すものです。

 

私達、国民一人一人がより深く様々な視点から歴史を学び、考え、

そして今、適切に軍事(今はそれに代わるものとして権威が挙げられるのでは)、政治、メディアと接して判断・行動することの大事さを、この所感は伝えようとしているのではないでしょうか。

日本がかつて辿った「情緒的な非論理的な結論に導かれやすい」を今も繰り返しているのではないでしょうか。

 

そういった中で、「今こそ学ばねばならないということの必要性・重要性を感じておるところであり、国民の皆様方と共にそういうことを学ぶということは政治家の責務」という言葉。

 

いろいろと考えさせられる所感です。

 

「知れば知るほど自分が知らないことの多さに愕然とする。」常に学びですね。

 

 

 

また、歴史という事について、 私は戦史も含めて、学生時代、そして自衛隊在職時において学んできました。

 

自衛隊在職時では戦史を幹部候補生学校をはじめいろいろな場所で学ぶのですが、戦略・戦術等々で合理的妥当性による判断が為されていない、と思うことが多々あります。

情緒的な非論理的な結論に導かれやすい」の状況が多々散見されるのです。それ以外でも不可解な決断が為されたことも。

 

なぜ? なぜ? なぜ?

 

なぜ負けるような戦略が止まることなく良識が排除され幾度も進められていったのか? なぜ?

 

点ではなく、これはシステム的なものがあったのでしょう。